読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

なにか書きたい。

人生無計画な28歳が思いのままになにか書きます。

6年

 

今日は3.11

東日本大震災から6年が経った。

 

あの日、私はまだ22歳。

23になる年だった。

 

夕方から母と中野に出かける予定だったのだけど、ルミネが10%オフやってるし、それまでに服を見に行ってこようと電車で北千住に向かっていた。

 

北千住まであと一駅というところ。

電車が動き出したと思ったら、車内のアナウンスが入った。

 

「ただいま、揺れを感知しました。急停車します、ご注意ください」

えっ、と思った。

 

そんな小さな地震でも、電車が走り出していても、感知できるんだ、スゴイな。

急停車した電車。私は窓際に立っていた。

 

すると間もなく電車はガタガタと揺れだした。

大きい…

 

電車だから揺れるの?

それとも、ついに来たの?

 

外を見ると、真新しいマンションのベランダに居る人がしゃがみこんでいた。

ああっ間違いない、大きな地震なんだ、、

 

長いこと、大きく揺れた。

揺れはじめた頃も大きく感じたのに、揺れている最中もどんどん大きくなった。

 

ガラガラに空いていた車内。

はじめは静かだったけど、揺れが大きくなるにつれて悲鳴が聞こえた。

私はたまらず近くの席に座った。

 

震源は…震源はどこ?

 

まだ揺れの残る車内で、だいぶ呆然とした後に、やっと思ったことだった。

 

Twitterを開いてみた。

もうそこには情報が出ていて、赤い点が宮城県沖に示されていた。

 

宮城…

 

東京がこんなに揺れたのに、向こうはどれほどの揺れだったのか。

鳥肌が立った。

 

津波が…

津波が来る…

 

以前、テレビで見たことがあった。

ずっとずっと昔、大地震があった後に大津波が来た再現ドラマだ。

CGで表現された大津波は、しんとした暗い海の向こうからやって来て、何もかもを飲み込んでいた。その映像がすごく怖かったのを覚えていた。

 

言い知れない不安感が胸の中でいっぱいになった。

助けて、みんな大丈夫であって、どうか、、

わけの分からない気持ちだ。

 

 

 

その後、電車は動かなくなった。

駅員さんの誘導で、まだホームから出きっていなかった後方の車両から、乗客みんなで地上におりた。踏切は遮断器が下りたまま鳴りっぱなしで、その前には若いお巡りさんが駆けつけており、「ここは通れませんので、線路をくぐれる道まで出て頂けますか」と色んな人に説明していた。

 

私は車内で一緒になったおばさま方と北千住駅に向かった。

そのときには電話もメールも通じず、家に一人でいた母のことがずっと気掛かりだった。

まわりの建物は崩れていないし、大丈夫だとは思うけど、うちはマンションの12階。

あんなに揺れたんだ、何か起きていても不思議ではない。

 

北千住駅にやっとのことで着いてみると、あたりは騒然としていた。

ロータリーには人が溢れ、バスの中には人がぎっしり乗っていた。

バス停の列も、タクシー待ちの列も凄まじいことになっている。 

しかし、バスもタクシーも立ち往生していた。

 

人をかき分けかき分け進むと、マルイの店員さんもルミネの店員さんも着の身着のままで外に出てきていて、寒い寒いと言いながら施設の誘導で列を作っていた。

 

このロータリーの状態を見て、「ああ、東京も被災したんだな」と思った。

こんなことは生まれて初めての体験だった。

 

いつ動き出すやも知れぬ都市機能。

私は即、家まで歩いて帰ることに決め、行動を共にしたおばさま方と別れた。

 

 

 

荒川の土手を歩く。

橋の上には動けなくなった車がぎっしり停まっていて、その横をたくさんの人が歩いていた。見たこともない異様な光景だった。

 

何気なく土手道を歩いていたら、お巡りさんが自転車で前からやって来て「ここだと津波が来るかもしれません、上にあがってください」と声を掛けてくれた。

 

えっ…津波って川にも来るの…

そ、そうか、そうなるか…

  

電話は通じなかったけれど、災害伝言板にはアクセスできた。

「北千住から歩いて帰る」と書いた。

ああ、母は大丈夫かなぁ。せめて大丈夫かどうか分かればいいのに。

 

父とは早々に連絡が取れ、弟の無事も確認できた。

父は伝言板にも書き込んでいたけれど、母はその存在を知っているのだろうか。

 

寒々しい街をどんどんどんどん歩いた。

やっとのことで葛飾に入っても、道に停まった車は皆、相変わらず動けないでいた。

 

最寄駅までの道を歩き出したとき、何度もチェックしていた伝言板に「中野ムリ」と母が書き込んだのを見た。すごくホッとしたのと同時に、この緊急時でも「無事です」でも「家にいます」でもなく、「中野ムリ」という母らしい文面にふっと思った。

 

やっとのことで家に帰り着くと、玄関のドアにはストッパーが挟んであった。

地震の後に間違いなく母が取った行動を確認して、そこでようやく胸をなでおろした。

ドアを開けると、室内のドアも開けてあって、すぐに母と目が合い、(よかった!)という顔をし合った。

 

 

 

あの日

 

大切な人の無事を確認できずに不安でいっぱいだった人たちがどれほどいたのだろう。

その胸をなでおろすことなく、深く深く悲しんだ人たちがどれほどいたのだろう。

 

私は地獄のような映像を見ながら、瓦礫に降り積もる雪を見ながら、頭を垂れることしかできなかった。現実だとは思えなかった。行方不明者の数もまったく信じられなかった。

 

 

あれから私は何かやってこれたのだろうか。

 

考えるといつも苦悩してしまう。

もっと何かできたはずだと思ってしまう。

 

でも、間違いなく私は日本国の一部をなしている。

自分自身を認められるようになって、ちゃんと社会で活躍して、幸せに生きることが、日本の幸せでもある。まわりの人たちもみんなそうだ。

 

 

今日から7年目がはじまる。

私も日本のみんなと一緒に、また新たな一歩を踏み出していこう。